実録! 80年代初頭に世間をお騒がせした東名全開族とは?【OPTION1983年8月号】

「東名全開族25時の狂走曲 サタディ・ナイト・ラプソディ」…なんとまぁOPTIONらしい過激なタイトルです。この記事は当時、問題視されていた「東名全開族」とはどんなものなのか?の覗き見実録レポートです。東名全開族とは、OPTや他クルマ雑誌が名付けたもの。走っていたのは…RE雨宮・雨さんやTRUST大川さんたちの本気の全開走りに憧れる若者たち。

が、今から約15年ほど前、雨さんや雨さんの走りの仲間の方たちに80年代の走り屋時代のことをインタビューしたとき、「この頃にはもう東名は走ってなかったッスよ」と言っていました。雨さんたちは「ただ、仲間内で勝った!負けた!!と、走りを楽しんでいただけだった」と。バトルしてドーノとか、毎週ナン曜日のナン時に集合してドコドコでUターンしてゴールはドコとか、そんなことは「してないんだよね~」と語っていました。「確かにそれ以前は東名を走ってはいたけど、この時代になると走るクルマやギャラリーが多過ぎちゃって、安全に走れるような状態じゃなかったからね」と。

じゃ、この東名全開族はなんなのでしょうか? それは、雨さんたちに憧れ、チューニングをしていてもしていなくても、とにかく雨さんたち「みたい」に走っていた人たちなのです。だから、この時代の中には、雨さんたちが走る姿はありません。大体、雨さんたちは集団走行をしたことなど一度も無いのです。「凄い走り屋たちがいる!」「雨さんの走る姿を見たい!」「オレたちもいっちょ走ってみっか!」…噂がウワサを呼び、勝手で危険な走りをし始め、東名高速上にクルマを停止させて見学…。そんな危険な状態になってしまっていた、当時の東名全開族たちの姿です。

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東名全開族25時の狂走曲 サタディ・ナイト・ラプソディ
血潮たぎる魂、熱き全国の真の走り屋に訴える・・・

最高速時代のプロローグ

いったい、いつ頃からだったろうか? 東名最高速ランナーの噂が一部の走り屋たちの間で囁かれるようになったのは。土曜日深夜、東名上り線・海老名SAから、瀬田・東京料金所までの約30kmを全開で疾駆する。関東の走り屋/チューナーにとって、それは、密かに最高速にトライできる、限られた空白帯だった。深夜のトラック便も、その時間だけは途絶えるのだ。

そこでは「チューニングでン100ps出ている」かは問題にならなかった。どんなに口でチューンの凄さを主張しようとも、走って本当に速いか否かがすべてだったからだ。要求されるのは、パワーもさることながら、確かな足まわりと、真の空力的リファイン…。

パンテーラ、ポルシェ、Z、RX-7…お馴染みな関東の最高速マシンたちである。が、その速さには確かな裏付けがあった。そのほとんどが。東名テストコースで磨き抜かれたマシンたちだったから。

ところが…、最近「オイ、この頃、土曜の夜の東名、スゴイらしいゾ」「もうアソコは終わったよ。本当に走れなくなっちゃったね」、そんな声があちこちから聞こえてきたのである。「ここのところ、ずっとSAでパトカーが張っている!」となれば、もう穏やかではない。東名ウイークエンドの空白ゾーンは、完全に変質してしまったようだ。

この記事の著者

永光やすの 近影

永光やすの

「ジェミニZZ/Rに乗る女」としてOPTION誌取材を受けたのをきっかけに、1987年より10年ほど編集部に在籍、Dai稲田の世話役となる。1992年式BNR32 GT-Rを購入後、「OPT女帝やすのGT-R日記」と題しステップアップ~ゴマメも含めレポート。
Rのローン終了後、フリーライターに転向。AMKREAD DRAGオフィシャルレポートや、頭文字D・湾岸MidNight・ナニワトモアレ等、講談社系車漫画のガイドブックを執筆。clicccarでは1981年から続くOPTION誌バックナンバーを紹介する「PlayBack the OPTION」、清水和夫・大井貴之・井出有治さんのアシスト等を担当。
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