1964年マツダ・ロータリー誕生以前、世界初のロータリー搭載ヴァンケル・スパイダーに試乗! オーバーレヴ注意!!【RE追っかけ記-2】

1964年秋、足掛け3年のイギリスでのワーキング・ホリデイならず、ワーキング・スタディ&スタディの終末、帰国寸前でした。2番目のスタディは、知己、知己の知己、その先の知己から自動車もの書き修行でした。さて、こちらに来て以来、執念深く取材、試乗の依頼を続けていたNSU本社からグッドウッドサーキットにおいて、市販発表したヴァンケル・スパイダーのメディア試乗会を開催するという知らせ。間に合いました!

グッドウッド・メインスタンド前を走るヴァンケル・スパイダー(当時のサーキットの設備、こんなものでした)。

RE発表の1年後、1961年1月、デトロイトの米自動車技術会SAE大会において、NSUのRE開発部長ヴァルター・フレーデ博士は、詳細な技術發表をしていました。論文には、シュポルト・プリンツをロードスター化したスパイダーにKKM400ワンローター・エンジンを搭載し、開発中と記されていました。NSUがマツダに送りつけたのは同型エンジンです。生産型は、単室容積を500ccに拡大していました。
秋の晴れた一日、グッドウッド・サーキットのフルコースを使い、二人ひと組みの試乗でした。当時の発表会はもちろん、試乗会でも作業服のメカニックは別として、メーカー、メディアともにスーツとネクタイが常識でした。

イギリス新聞の中年自動車エディターが相棒。「お先に」と同乗。オット、エンジンストール。明らかに通常レシプロ(往復ピストン)に比べ、下のトルクは細いようです。癇の高いスポーツ2ストローク的かな。回転域を選べば、滑らかに走れます。

相棒英記者氏、ここでシフトアップ。高回転域への上昇は早いのでオーバーレヴに注意。

ただ、レヴリミッターはないので、オーバーレヴに注意。ピットベンチの上にはスペアエンジンが準備してあり、2、3台交換したようです。リアエンジンで、燃料、電気系共にシンプルなので、手早く積み替えていました。

 

その後、ヴァンケル・スパイダーは、研究用として日本にもサンプル輸入されました。私のインポーター時期もBMW小型車を入れ、モーターファン誌ロードテストに提供しました。20ページくらいの大学研究室によるフル計測試験、自動車工学権威による試乗が含まれます。総括座談会では、ヴァンケル・スパイダーの癇性が酷評を受けました。特にキビシかったのが富塚清帝大(東大)名誉教授、明大教授でした。

モーターファン誌ロードテストの富塚清博士(パッセンジャー)。

戦前の日本航空工学権威、内燃機関研の大究者ですが、ヴァンケルREの批判は強烈でした。一方、2ストロークは積極推、またユニークなエンジン開発者を支援されていたのが記憶に残ります。RE、2ストロークともにポート吸排気で、特性も共通すると、浅学ながら訝ったものです

 

フェリックス・ヴァンケルの「オフィシャル写真」の多くは、彼の発明したDKM、ドイツ語『回転ピストン・ェンジン』を前に置いています。彼の理想とするREは、内外2コの回転するローターを持ちます。ローターと回転するハウジング、そして外側ハウジングとも形容できる構造です。

フェリックス・ヴァンケルとDKMエンジン。内ローター、外側ローター/内ハウジングが回転します。

これに対し、NSUが生産化開発したのがKKM型、遊星運動ピストン・エンジンの頭文字で、ローターは固定ハウジングの中で回ります。マツダの山本健一RE研究部長(当時、のちに社長、会長)のDKM『自転型RE』、KKM『公転型RE』は、名命名だと思います。ヴァンケルと助手ヘップナー博士が試作したDKMは、13000rpmの高回転と高出力を記録したといいます。RE最大の技術難関であったアペックスシールは、遠心方向に力が働き、高性能に適していました。一方で、内外ローターの間に混合気を入れ、排気を出し、また火花点火をするには、非常に複雑な構造を必要とします。

ヴァンケルを訪問した山本健一部長(当時)とマツダRE研究開発者。机の上にはDKM。

NSUの名エンジン設計者、フレーデ博士と彼のチームは、KKMを開発します。フェリックス・ヴァンケルは、「私のサラブレッドを荷曳き馬に変えようというのか」と怒髪天をついたと伝えられています。

冊子はフェリックス・ヴァンケル著『回転ピストン機械分析』で、技術史に残る多種多様の回転機構を掲載している。モデルは、ヴァンケルRE発表直後、NSUがくれたヴァンケルRE作動で、内外ローターを持つ。この状態ではDKM、透明外側ハウジングを外すとKKMとなる優れもの。

山口京一