自伝的・爺ぃの独り言・01 星島 浩 <藤村タクシーで育つ>

[MONDAY_TALK]毎週月曜朝にお届けする、自動車評論家・星島浩(ほしじま・ひろし)さんの“爺ぃの独りごと”。かつての月刊モーターファン誌での透視図製作からはじまり、以後は評論家として活躍、新車速報ムックの“すべてシリーズ”での執筆などで有名。

そんな御大が、何とクリッカーに登場。むかし懐かしい話から、最新情報までを語りまくる! 今回は生い立ち編。毎回ちょっと長いけど、必見!! なのだ!

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原点は神戸。実家は灘だが、弟が生まれる前の母を気遣った大叔母が私を預かってくれた。大叔母の嫁ぎ先が神戸駅前の「藤村タクシー」だったことで、私と自動車の付き合いが始まる。

左右を旅館に挟まれた、名はタクシーだが業態はハイヤーで、営業用に最大3台保有。大阪製シボレーが主だが、途中、横浜生まれのフォードも加わった。奥に工具置き場と作業スペース。1台につき運転手と助手1人ずつの控え室、平素は大叔父が座って応対する電話と帳場があり、2階は大広間を含む大叔父夫婦の住居。納戸や物干し台もあった。トイレは2階と1階に。台所、風呂、洗濯場は1階だった。

3歳で預けられ、弟が生まれた後も実家へ帰らなかったのは毎日が楽しかったせいだ。大叔父夫婦に子供がいなかったこともある。特製の「つなぎ」を着せられ、コロ付きの板に仰向けになり、クルマの下に潜り込んで裏側を眺めるのが日課。およそ玩具は要らなかった。

75年以上も昔の話である。当時は、仕業点検はもちろん、かなりの整備もガレージ内で行われた。天井からチェーンを用いてエンジン脱着をやっていたし、クラッチやトランスミッションの分解整備を見た記憶もある。シャシーはグリースアップが頻繁に施され、ブレーキシューの調整や交換も運転手と助手の仕事だった。
動き回られては困るとあって、私は用意された小椅子に座り、それら作業を飽きもせず見ていたらしい。初めは運転手と助手がやりとりするドライバー、スパナ、レンチなど工具類やゲージ名を憶え、次いで部品・用品名、やがて同じ鉄棒でもシャフトだったり、レバーだったり、ロッドだったり、働きを知るようになる。だから3歳児が小学3年生に進む頃には、およそ自動車の構造と作動を理解していた。

苦しんだのはデフの働きだ。ジャッキアップされた車両の右後輪を前進側に回すと左後輪が後ろに向かって回るではないか!

運転手や助手が「こうでなければカーブを曲がれない」と言い、略図で教えてくれるのだが、そんな長い歯車が入っているなんて考えられないし、カーブだって左右両輪とも前進している。

毎日のように詰問するものだから、ある日、たまりかねた大叔父が部品を借りてきて、プロペラシャフトの回転方向をリングギヤで変えたところで、ビニオンが働いて左右輪・回転差の辻褄を合わせる仕組みを丁寧に教えてくれた。疑問を抱いて理解するまで、たぶん2年くらい要したに違いない。が、図や写真で憶えたんじゃない。頭の中にデフケース内のギヤ構造と差動の様子が組み上がっていた。

実家近くの小学校にも、おおかた駅前から市電で通学。その頃にはタクシー会社の跡を継ぐ身だと信じていたが、小学4年で父親が病死。太平洋戦争が始まって営業車が徴用され、3台が2台、1台に減り、運転手や助手が出征したほか、大叔父の病気も重なって、実家に戻る。

戦争が激しくなる間に大叔父が病没。中学1年で空襲に遭って焼け出され、爆撃を免れた神戸駅前の大叔母を頼って母、弟妹と暫く身を寄せたが、その時点では残っていた1台が木炭車に改造され、朝になると初老の運転手が表通りでエンジンを始動させるのだが、軽症で済んだものの、脇にいた弟が倒れて一酸化炭素中毒の怖さを知る。近くの貨物港で、穀物搬出作業中に酸欠で死者が出た話も耳にした。

ほどなく母と弟妹は岡山の本籍地へ疎開。私は父の実家があった広島県呉市の中学に転校。広島原爆、終戦を挟んで高校を卒業するまでの5年間近くはクルマと全く関係ない生活が続いた。

一方タクシー会社は、戦災を免れたものの、神戸駅前再開発のためガレージごと建て屋が立ち退き。再興できないまま廃業する。

突如、記憶が蘇ったのは高校卒で上京。絵画とデザインを勉強すべく、某美術研究所の門を叩いて2、3ヶ月経ったときである。★

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[筆者略歴]

1932年生まれ。モーターファン編集次長・AUTOSPORT初代編集長で三栄書房退社。64年〜74年まで10年間、平凡パンチ誌カーデスク。以後スポーツニッポン新聞、東京放送=TBSとの契約期間を経てフリーランスの自動車評論家となる。三栄書房在籍中からロードテスト要員30年。イヤーカー選びはモーターファンで10年。日本カーオブザイヤー(COTY)で10年。設立発起以来RJC=日本自動車研究者・ジャーナリスト会議で22年目。所属スポーツクラブで鈴鹿1000㎞、2&4、鈴鹿8耐レースを企画・運営。Aライセンス講習会講師を40年間務め、現在は鈴鹿名誉競技役員。日本で始めて自動車透視図を描いたことでも知られる。